なぜ原子は結合するのか — 共有結合とH₂
なぜ原子は結合するのか — 共有結合とH₂
二つの水素原子が出会ってH₂になる出来事を、エネルギー論証・ハイトラー–ロンドンの波動関数・モースポテンシャルの三つの角度から最後まで追いかける。
はじめに
この章は本書のなかではじめて「分子」を真正面から扱う章である。4章までは一つの原子、せいぜい一個の電子の運動を見てきた。今度は二つの原子が向かい合い、二個の電子が二つの核のあいだに居場所を見つける、最も単純な分子 — 水素分子 H₂ — が舞台になる。この章を読み終えたとき、読者は「なぜ二つの H が H₂ に束ねられるのか」という問いに、エネルギーで・波動関数で・ポテンシャル曲線で、三つの異なる言語で同時に答えられるようになっているはずである。6章の分子軌道法は、ここで見るハイトラー–ロンドン像の自然な一般化である。
本論 1 — 結合のエネルギー論証
水素原子1個の基底状態エネルギーは eV である(本書では を 水素原子のイオン化エネルギーの符号反転 として使う)。二つの H 原子を互いに無限遠に置けば、合計エネルギーは単純に eV。これが「結合が起きていない基準線」である。
二つの原子をゆっくり近づけると何が起こるか。核–核反発 はもちろんエネルギーを上げる。しかし二個の電子は突如として「二つの核がつくるより大きな箱」のなかを自由に動けるようになる。箱が大きくなれば電子の運動エネルギーは下がる — ド・ブロイ関係 (de Broglie、物質波の波長) において が大きくなれることは が小さくなれることを意味し、 が減るからである。より精確には、電子密度が二核間の空間に集まることで、二個の陽子の両方から同時に引力を受け、ポテンシャルエネルギーも一緒に下がる。
この二つの効果が合わさり、ある臨界距離 Å の近傍で全エネルギーは より 低くなる。その差が結合エネルギー eV。実験的に H₂ を解離させて二個の自由 H 原子にするにはちょうどそれだけのエネルギーが必要である。一般化すれば: 結合は、電子の共有が分離原子の極限よりも全エネルギーを下げるときに形成される。 この一行があらゆる共有結合の出発点となる。
本論 2 — ハイトラー–ロンドン(原子価結合)の描像
1927年、ハイトラー(W. Heitler)とロンドン(F. London)は H₂ に初めて量子力学を適用した。彼らの出発点は単純である: 結合前の二つの H 原子はそれぞれ 1s 電子を一個ずつ持っていた。その二つの 1s 軌道を , と呼び、分子になったあとも形がほぼ生き残ると仮定する。
問題は、二個の電子が 互いに区別できない という点にある(3章のパウリ原理)。したがって二電子の空間部分とスピン部分を合わせた全波動関数は、二電子のラベル交換に対して必ず 反対称 でなければならない。結合をつくる空間波動関数は次の対称組合せで
ここで は規格化定数、 はスピン シングレット(singlet、合計スピン 0) 状態である。空間が対称だからスピンは反対称でなければならず、こうして全体が反対称になる。
符号が の空間組合せは二核間に電子密度を積み上げる — 二つの 1s ピークが強め合いの干渉を起こすからである。これが 結合(bonding) 組合せ。逆に の組合せは二核間にノードを作り、電子密度を外側へ押しやる — 反結合(antibonding) 組合せ。そして結合組合せは必ずスピンシングレットと組になる。化学者がいう「二個の電子が対をつくって結合を生む」という表現は、まさにこの — 空間が対称になるよう二つのスピンが反対向きに束ねられた — 状態のことである。
本論 3 — モースポテンシャル vs. 調和近似
核間距離 を変えながら全エネルギー を描けば、H₂ は Å に深さ eV の井戸を持つ。この曲線の形そのものが分子の性格を決める。
平衡点 の近傍では2次のテイラー展開がよく当てはまり
調和振動子(harmonic oscillator)の形になる。 はばね定数。しかし が大きく外れると、この近似は破綻する — 調和井戸は でも無限に高くなる一方、実際の分子は十分伸ばせば 解離する。すなわち に平坦化しなければならない。
この極限挙動まで生かす最も有名なモデルが モースポテンシャル(Morse potential) である:
(単位 1/m)は井戸の幅を決めるパラメータ。 で最小値 0、 で 、 で大きな正値 — 三つの極限挙動を全て満たす。 近傍でモースを展開すれば調和項と正確に一致し、そのときのばね定数は
となる。H₂ の場合 eV、 Å、 1/nm。二曲線は 近傍ではほぼ重なるが、伸びが 0.05 nm を超えた瞬間に分かれ始める — モースは解離極限に向かってなめらかに寝そべるのに対し、調和は非物理的な無限の復元力で暴走する。振動励起状態の準位間隔も両者で異なる: 調和は等間隔、モースは上に行くほど狭まる(非調和性)。
Pythonで確かめる
# H₂のモースポテンシャルと調和近似を同じ軸に重ねて描く。
import numpy as np
import matplotlib.pyplot as plt
D_e = 4.52 # 結合解離エネルギー [eV]
R_0 = 0.0741 # 平衡核間距離 [nm]
a = 19.4 # モースパラメータ [1/nm]
k = 2 * D_e * a**2 # 調和ばね定数 [eV/nm^2]
R = np.linspace(0.04, 0.30, 400) # 核間距離 [nm]
# モース: 最小値が -D_e になるように平行移動
V_morse = D_e * (1 - np.exp(-a * (R - R_0)))**2 - D_e
# 調和近似: 同じ平衡点・同じ深さを基準にする
V_harm = 0.5 * k * (R - R_0)**2 - D_e
plt.plot(R, V_morse, label="Morse")
plt.plot(R, V_harm, label="Harmonic", linestyle="--")
plt.axvline(R_0, color="k", linewidth=0.6)
plt.axhline(0.0, color="grey", linewidth=0.4)
plt.ylim(-5.0, 5.0)
plt.xlabel("R [nm]")
plt.ylabel("V(R) [eV]")
plt.title("H$_2$: Morse vs. Harmonic")
plt.legend(); plt.tight_layout()
plt.show()
print(f"平衡点での曲率一致の確認: k = {k:.2f} eV/nm^2")
print(f"R → ∞ の極限: Morse → 0, Harmonic → ∞ (非物理)")
二つの曲線が nm の近傍ではほぼ重なり、 が 0.10 nm を超えた瞬間からモースは天井 に寝そべっていくのに対し、調和は垂直に立ち上がる絵が出力されれば、本論 3 の二つの極限挙動を目で確かめたことになる。
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6章: 分子軌道法では、この章のハイトラー–ロンドン像を一段一般化する。二つの 1s 軌道をそのまま足し引きする代わりに、二つの原子軌道の 線形結合 から新しい分子軌道を構築する LCAO 手続きを導入し、結合・反結合軌道が単なる符号の違いから自然に現れる様子を見る。この章のエネルギー論証とシングレット対の像を手にして読みに行けば、MO 法は同じ風景を別の座標系から眺めただけのものに見えてくるはずである。